| ３ 「──レイ……？」 アレクサンドルの顔が急に心配そうになった。怜は慌てて、のぞき込んでくる彼の視線から逃れようと、さらに顔を背けた。 あの日の会見のことを思いだしたとたん、不覚にも目頭が熱くなってしまったのだ。こんなことで泣くなんてみっともない。 会見の後、結局、チョコレートを手渡せないまま、怜は逃げるようにして病院に戻ってしまったのだった。翌日からエレーナの他にも、新たな研修医が大勢やって来て大忙しになったのと、首相が滞在しているのを理由に、ずっとこちらで寝泊まりしていて、王宮には帰っていなかった。 「すまない。ついきつい聞き方になってしまった。ただ、これだけは教えてくれ。あのチョコレートは一体誰からもらったんだ？ やはり、エレーナか？」 気遣わしげな言葉に、怜は呆然とした。思わず顔を上げてアレクサンドルを見返す。夕闇が迫る中でもわかった。彼はひどく辛そうに顔を歪めている。 「ど、どうしてそうなるんです？」 「一週間前の会見の日に、控えの間で、彼女があの包みを持っているのを見たのだ。その後、君が同じものを持って考え込んでいるのも見かけた。確かこっちと違って日本では、女性が男性にチョコレートをプレゼントして告白できる日、なのだろう？ だから私は……！」 怜はあわてて、また切羽詰まった口調になっていくアレクサンドルを押しとどめた。 「ま、待ってください。じゃあ、あなたは彼女からチョコレートをもらっていないんですか!?」 「何故、そんなことを聞くんだ。彼女が君に贈ったものが、私のところに来るはずがなかろう！」 怜は呆然とした。信じられなかった。どうして彼女は渡さなかったのだろう？ 「違います！ あれは彼女からもらったものじゃありません、私が日本で、あなたに買ったものなんです……！」 思わず叫ぶ。恥ずかしさで頭が爆発しそうになった。 「何だって？」 ふいに、こちらを凝視していたアレクサンドルの瞳が大きく見開かれた。怜は頬を染めながら、懸命に続ける。 「私が買ったんです。あなたにプレゼントしたかったから……。こちらでは、男から贈ってもおかしくないんですよね？ だから……。それがたまたま、エレーナが買ったのと同じものだったんです」 手を伸ばし、包みを取ってアレクサンドルに差し出す。アレクサンドルは呆然としていたが、両手で受け取り、すぐに開けて中を見た。添えられた、金で縁取りされたカードも確かめる。 怜は急いで部屋の灯りをつけ、ドキドキしながらその様子を見守った。カードには、アレクサンドルへ愛を誓ったメッセージか書いてある。彼はそれらをしばらくじっと見つめていたが、やがて丁寧にカードをしまい、箱に蓋をしてまた怜に向き直った。 「──レイ、それならどうしてあの日、これを私にくれなかったのだ？ 君からもらえたなら私は本当に嬉しかったのに」 率直に聞かれ、怜はまたしても真っ赤になる。けれど恥ずかしさより、もう、全て話してしまいたい、という気持ちの方が強かった。アレクサンドルに向き直る。 「だ、だって、エレーナがあの日、俺のと同じチョコレートを持っていたから。俺、てっきり彼女があなたに贈ったのだと思っていたんです。だから俺からは渡せなくて……。彼女、あなたのことが本当に好きみたいだったし、綺麗で優秀だし、あなただって嬉しそうだったから……！」 言っているうちに哀しくなってきた。確かにエレーナは優秀だったのだ。怜はあくまでも指導医として厳しく指導しているつもりだが、それにもよく応えているし、思いやりもあって患者や看護師たちにも好かれている。何度か首相がお忍びで病院に来た時も、研修医としての態度を崩さなかった。だから怜は、ますます彼女がアレクサンドルに相応しいような気がして、ひそかに辛かったのだ。 けれど怜の言葉に、今度はアレクサンドルが呆然としてしまったようだった。 「ちょ、ちょっと待ってくれ、レイ！ 私は彼女に全然そんな感情は持っていないぞ！ 子供の頃に数回遊んだ、幼なじみというだけのことだ。彼女の方だってそうだと思う」 「だってアレック、俺にはカードをくれなかったじゃないですか……!!」 こちらを見つめ、すっかり困惑した様子のアレクサンドルに、怜はとうとうそう言ってしまった。 こんどこそ恥ずかしさで消え入りそうになる。まるで中学生のようだと思った。 けれど、それは本当の気持ちだった。一旦口にすると、言葉は勝手に溢れ出してくる。チョコレートの件とともに、怜はそのことをずっと気に病んでいたのだ。 「……！」 「あの日、ヴァレンタインでしたよね？ だからその前後、あなたの元には、国中からたくさんのお祝いカードが来ていましたよね？ イヴァンが教えてくれたけれど、あなたはそれに、一生懸命手書きでお返事を書いていらっしゃったのでしょう？ なのにどうして、俺にはくれないのですか……!?」 すると、アレクサンドルは不意に顔を歪めた。スーツの胸ポケットから、一通の封筒を取り出す。 「──カードなら、今、ここにある」 「えっ……」 差し出されて、怜も思わず両手で受け取った。真っ白で美しい洋型の封筒だが、角のところが少しよれていた。 中には純白のカードが入っていた。縁にエンボスで、花と雪が繊細に描かれている。そっと開けると、美しいアレクサンドルの筆跡で、こう書かれていた。 「レイへ 永遠に君一人を愛し続ける。私は、君のものだ。 アレクサンドル・ニコライヴィチ・エリシウス ××××年２月１４日」 そしてその下には、今度はひどく危なっかしい筆跡で、日本語で同じ言葉が書かれていたのだ。宛名と署名、それに日づけまで、全てきちんと繰り返されている。 怜は身体が震えるのを感じた。日本語の文字は拙かったが、真剣な想いがはっきりと伝わってくる。思わずアレクサンドルを見つめた。 「どうして……どうしてすぐにこれを下さらなかったんです？」 「恥ずかしくて渡せなかったのだ。この一週間、ずっと持ち歩いていた！」 アレクサンドルは真っ赤になった。本当に少年のようだった。 「え……？」 「君宛に、日本語でメッセージを書こうと思いついた時は嬉しかった。だが思った以上に難しく、なんとか書き上げたがあまりにみっともなくて、とてもこんなものは贈れないと思った。……君は、本当に誰からも慕われているから、きっと贈り物もたくさんもらうだろうし、てっきりエレーナからチョコレートをもらったのだろうとも思っていたのだ」 「何を言って……！」 怜は慌てて言いかけたが、アレクサンドルはそれを遮って続けた。 「そもそも、クラコフ首相は大の親日家で、君のことをとても気に入っているんだぞ！ だから無理に日程を詰めてでも君に会ったし、病院にも何回も視察に来たんだ。おまけに私に、『シノハラ先生は娘のことを気に入ってくださるだろうか。娘も尊敬しているようだし、陛下の方からそれとなく確かめていただけませんか』などと持ちかけてくるし……。それに、なにより君が、娘婿になってほしいという彼の言葉に、まんざらでもない様子だったではないか！」 「ええっ？ だってあれは……あなたのことを仄めかしていたんじゃなかったんですか!?」 「冗談じゃない！ 私のことなど話題にも上らなかったぞ。はっきり言われたが、彼は娘を国家元首とは絶対に結婚させたくないそうだ。奥方が無理を重ねて早世されたからな。──レイ、本当に君は、人にどう思われているのかわかっていないな！」 「な、何をおっしゃるんです……？」 目を見張った怜に、アレクサンドルはまた顔をくしゃくしゃにした。まるで、少年というよりは子供のような表情になっていた。それを見て、一瞬、可愛い、と怜はつい微笑みそうになってしまい、あわてて唇を引き締めた。アレクサンドルはさらに続けた。 「君から、日本に一度戻りたい、と聞いた時からずっと、不安で仕方がなかったのだ。日本はエリシアよりはずっと豊かだし、君の故郷だから、このまま戻ってこなかったらどうしようと……。いっそのこと君の乗った飛行機を、王命で引き返させようかと真剣に考えたくらいだ。そうしたら案の定、君の帰国は遅れるし、帰ってきてくれてほっとしたとたん、今回のことがあったし、エレーナもだが、新しく入った研修医たちはみんな君から離れないし、おまけにイヴァンの奴までが、また最近、病院に入り浸りになっているから……！」 「そんな、違います！ 研修医たちが傍にいるのは、俺が指導医だからですし、イヴァンももうそんなつもりはないと思います。日本で手間取ったのは、師が心配していたのと、手続き上必要なことがあったからで……。俺は一刻も早く、エリシアに帰りたかったし、あなたに会いたくて仕方がなかっ、……！」 そこまで言いかけて、怜の声は途切れた。アレクサンドルに力一杯抱きしめられたからだ。 「──すまなかった。レイ。私が誤解していた」 「アレック……」 全身に感じる温もりに、胸がときめいた。同時にこれまで、なんと子供っぽいことを言ってしまったのかと恥ずかしくなる。思わずうつむき、額を彼の胸に押し当てた。 「いいえ、俺がちゃんとあなたから話を聞いていればよかったんです。余計なことを考えて、一人でぐるぐる悩んでいたから……」 「それは、私もだ。私は君のことになると、いつも本当に冷静でなくなってしまう……」 アレクサンドルはそう言うと、そっと怜の顎を持ち上げ、唇を重ねた。と、今度はすぐに離し、代わりに頬や顎、首筋を執拗に愛撫し始める。同時に片方の手が白衣をはだけ、素早くズボンからシャツを引き出し、素肌に触れてきた。 「あ……っ！ だ、だめ。ここではいやです、アレック……！ 明日の夜からは一日休みですし、必ず王宮に参りますから……」 触れられたその感触だけで、ぞくり、と快感が走り、怜はあわててかぶりを振った。全身がアレクサンドルを求めているのを感じながら、それでも必死で身を離す。 「何故だ？ 君はもう、こんなに欲しがっているじゃないか」 「今は仮眠の時間ですけれど……研修医たちには、何かあったらすぐに部屋のドアを開けて、遠慮なく俺を起こすように伝えてあるんです。それに、患者さん達が入院しているのと同じ場所で、こういうことは……」 「──わかった」 必死で告げた言葉に、アレクサンドルはうなずいた。だがすぐに真剣な眼差しで見返してくる。 「だが、キスだけはさせてくれ。色々あったから……今は、約束が欲しい」 「……」 怜はアレクサンドルを見つめた。そして、返事の代わりに、自分から唇を重ねた。 「んっ、う……」 さっきよりも優しく、だが執拗に、アレクサンドルの舌が怜の口中を愛撫する。その温かな感触に怜はまた震えるような快感を感じ、つい、うっとりしてしまった。愛する人と想いを隠すことなく触れ合うのは、なんと心地いいことかと改めて思う。お互いの心が通じてから、数カ月も経っているのに、怜は行為の度に、震えるような歓びと快感を感じてしまうのだった。 ──そういえば、エレーナはあのチョコレートを誰にあげたのだろう、とふと怜が思った時、 「シノハラ先生！ お休みのところ申し訳ございません、ちょっとお聞きしたいことが……」 元気な声とともに、エレーナがドアを勢いよく開けた。そのまま硬直して立ちつくす。 「……！」 二人も顔を上げ、凍りついたようになって彼女を見返した。 この時、アレクサンドルの両腕は怜の背中にしっかりと回され、怜もまた、片手を彼の腰に回し、もう片方の手で頬に触れていたのだ。どう考えても恋人同士の抱擁にしか見えない姿である。 三人はそのまま、呆然と見つめ合っていた。 「おおい、エレーナ！ レイを呼ばなくても大丈夫だぞ、別の先生が来てくれたから！」 その時、向こうからイヴァンの声が聞こえてきて、皆、はっとわれに返った。 「す、すみませんでした、失礼します！」 エレーナはそう一言叫ぶときびすを返し、ドアを大急ぎで閉める。すぐに彼女が走り去る足音が聞こえてきた。 「……」 残されたアレクサンドルと怜は、お互いの瞳に困惑と気遣いを浮かべながら、青ざめた顔を見合わせていた。まずいことになってしまった、と、二人とも心の底から思っていた。 |